LOGIN聖リディア産婆院へ夜間灯油が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。 夜ではない。 そこを、エレノアはあえて確認した。 夜間灯油という名だからといって、夜に運べばいいわけではない。 北東区の細い道は、日が落ちると足元が悪い。 灯油壺を積んだ馬車が石畳の欠けに車輪を取られれば、割れる危険がある。 割れれば、油は無駄になるだけでなく、火の近い場所では危険にもなる。 だから、昼に届ける。 夜に使うものほど、昼のうちに整える。 それは、王妃基金がこの数日で学んだ新しい原則だった。 北翼の小会議室では、朝から夜間灯油の支援方法について話し合いが行われていた。 リリアナは、机の上に置かれた小さな油壺の見本をじっと見つめている。 茶色い陶器の壺。 口は細く、栓には封印紐が付けられている。 派手さはない。 けれど、これが夜の産婆院で赤子の呼吸を見る灯りになる。「灯油は、ただ渡せばいいものではありません」 薬師マティアスが言った。「火を扱います。赤子や産後の母親がいる場所では、置き場所、灯芯、換気、消火用の水まで確認が必要です」 リリアナは、すぐに手帳を開いた。「灯油、灯芯、換気、消火用の水……」 書きながら、少し顔をしかめる。「灯りを増やすと、危険も増えるんですね」「はい」 マティアスは頷いた。「暗いと体調確認が遅れます。しかし、明るくするだけでは火事の危険が出ます」「両方見る」「そうです」 リリアナは深く息を吐いた。 最近、本当に何も一つでは済まない。 布を届ければ洗濯が必要になる。
王妃基金の第一便が聖リディア産婆院に着いたのは、夜の二刻を少し過ぎた頃だった。 王宮北翼を出てから、馬車は北東区へ向かった。 王都の中心部を抜けるまでは石畳も整っていたが、北東区に入ると車輪の音が少し変わる。 道幅は狭くなり、家々の灯りもまばらになった。 夜風は冷たい。 春が近いとはいえ、日が落ちれば冬の名残がまだ肌を刺す。 馬車の荷台には、保温布十組、穀物袋、塩、石鹸、仮登録紙の束、そして王家医療院から一時貸与された煮沸鍋が積まれていた。 煮沸鍋は重かった。 運搬係の男二人が、慎重に持ち上げる。 鍋の底が荷台に当たるたび、鈍い音がした。 派手な贈答品ではない。 花も、菓子も、金糸の布もない。 けれど今夜、この鍋は花籠よりずっと必要だった。 聖リディア産婆院は、北東区の細い通りを入った先にあった。 石造りの小さな建物で、入口の上に白い布が掛かっている。 布には、聖リディアの印だという小さな灯火の刺繍。 その灯りも、今は少し煤けて見えた。 扉を開けたのは、年配の産婆だった。 名をエダという。 髪を布でまとめ、袖をまくり、顔には疲労が濃い。 それでも目は鋭かった。「王妃基金からです」 フィオナ司祭の補佐が告げると、エダは一瞬だけ目を伏せた。「……今夜のうちに来るとは思いませんでした」「緊急支援です。まず、煮沸鍋と保温布を」「こちらへ」 産婆院の中は、静かだった。 静かすぎるわけではない。 奥から赤子の小さな泣き声が時折聞こえる。 低い声で誰かが祈る声。
焼き菓子の焼き色見本が調理場に貼られた翌日、王妃基金の机には、まったく別の種類の紙が積まれていた。 甘い香りはない。 代わりに、湿った羊皮紙と、古いインクと、急いで書かれた文字の匂いがする。 支援申請書。 春挨拶会が終わり、公爵家の噂が一段落し始めたころ、王妃基金には新しい申請が増えていた。 理由ははっきりしている。 王妃基金が止まらなかったからだ。 不正が裁かれ、夫人会が揺れ、公爵家が監督下に置かれ、王太子府も再教育中。 それでも孤児院の屋根は直り、救貧院へ麦と薪は届き、薬草茶は配布前に止められ、使用人宿舎にも暖房費という欄ができた。 王都の人々は見ている。 貴族たちが笑っていても、現場は別の目で見ている。 あの基金は、まだ動くのか。 声を出せば、今度は届くのか。 そう思った者たちが、申請書を持ってくる。 だから、机の上に紙が増えた。 エレノアは、その山を前にして静かに息を吐いた。「増えましたね」 リリアナが隣で言った。 手帳はすでに開いている。 以前なら、紙の山を見ただけで逃げたくなっていたかもしれない。 今は、怖そうな顔をしながらも、逃げる姿勢ではなかった。「ええ
アデレード老伯爵夫人の伝言は、翌朝の調理場にまで届いた。 ――昨日の焼き菓子は、もう少し焼き色があってもよろしい。これは噂ではなく感想です。 その一文を読んだ瞬間、調理場の空気は止まった。 王都社交界で笑われたとか、菓子が一種類だったとか、贈答品を断ったとか、そういう話はすでに耳に入っていた。 調理場の者たちは、表の会場には立たない。 けれど、屋敷の中の声は意外とよく伝わる。 春挨拶会の菓子が一種類だったこと。 それを笑う夫人がいたこと。 だが、味は悪くなかったと言われたこと。 そして、老伯爵夫人が焼き色について言及したこと。 菓子係の若い料理人トマは、紙を読んだまま固まっていた。「焼き色……」 彼は呟いた。 隣で粉をふるっていた年配の料理女マーサが、腕を組む。「老伯爵夫人は、菓子をよくご存じだからね」「怒ってますかね」「怒っていたら、味には触れないよ」「でも、焼き色」「焼き色だね」 調理場の奥では、料理長バルトが黙って鍋を見ていた。 年季の入った大きな背中。 分厚い手。 口数は多くない。
春挨拶会の翌朝、噂はもう王都を歩いていた。 噂というものは、馬車より速い。 招待状より軽く、花籠より扱いに困る。 誰が最初に言ったのか分からないまま、朝の茶と一緒に広がり、昼には別の言葉をまとい、夕方にはまるで昔からの事実だったかのような顔をする。 ヴァレンシュタイン公爵家の小さな春挨拶会も、例外ではなかった。 北翼の小会議室には、朝から数通の私信と報告書が届いていた。 差出人はさまざまだ。 夫人会。 王宮女官筋。 公爵家の出入り商人。 庭師組合に近い老伯爵夫人の家令。 そして、王家監督官ヘルマンの情報確認係。 机の上に並べられた紙を見て、リリアナは顔をこわばらせた。「もう、こんなに?」「まだ少ない方です」 ヘルマン監督官は淡々と言った。 少ない。 これで。 リリアナは少しだけ椅子に沈んだ。 昨日の疲れが、まだ体に残っている。 花籠を断った。 飾り紐見本も断った。 菓子箱も断った。 薄桃色のドレスで立った。 笑われても戻さないと決めた。 それだけで十分疲れていたのに、翌朝にはもう噂の整理である。 社交界は、休ませてくれない。 エレノアは、いつものように紙を分類していた。 だが、その顔にもわずかな疲労があった。 マルタが無言で茶を置く。 今日は菓子も一つ添えられていた。 リリアナがすぐに気づく。「これは記録済みですか」 マルタが穏やかに答える。「はい。会議中の軽食として記録済みです」「
花籠は、受け取らなかった。 それだけなら、たった一行で済む話だった。 ――ベアトリス侯爵夫人より花籠持参申し出。贈答品一律辞退方針により受領せず。本人了承。返却。 受付の女官が記録した文は、簡潔だった。 だが、その一行が持つ意味は軽くない。 小さな春挨拶会の最中、リリアナは何度も受付の記録台へ視線を向けた。 花籠は、もう馬車へ戻されたはずだ。 それでも、そこに見えない花籠が残っているような気がした。 華やかな花。 春らしい香り。 「返礼不要」と添えられた、柔らかな罠。 以前のリリアナなら、喜んで受け取ったかもしれない。 綺麗だから。 せっかくだから。 相手の厚意だから。 断るのは失礼だから。 入口に飾れば、会場が少し華やぐから。 そう言って。 そして、その後に何が生まれるかは見なかった。 返礼。 例外。 他家からの追随。 関係維持費。 贈答記録。 また、見えにくい支出。 花は悪くない。 だが、花籠は扉になる。 ミリアム夫人の言葉が、今日ほどよく分かったことはなかった。 会場では、春挨拶会が続いている。 アデレード老伯爵夫人が、若い夫人たちに古いショールの話をしている。 クララ子爵未亡人は、庭師の覚書をヘルマン監督官へ資料として提出し、受領記録に署名していた。 エミリア伯爵夫人は、窓布の番号札について本当に興味があるらしく、リリアナの説明を聞きながら何度も頷いている。 そしてベアトリス侯爵夫人は、扇の陰から会場全体を見ていた。 花籠を断られたことを、腹立たしく思っているのか。







